今日はブラインドタッチで約2000文字を何時間で入力できるか挑戦した。
課題は「武蔵野」の五章にある部分を打ち込んだ。結果は2時間49分。
後日3か月ぐらい経過すればもっと早く入力できるだろう。
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自分の朋友がかつてその郷里から寄せた手紙の中に「この間も一人夕方に萱原を歩みて考え申し候、この野の中に縦横に通ぜる十数の径の上を何百年の昔よりこの方朝の露さやけしといいては出で夕の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人や逍遥しつらん相悪む人は相避けて異なる道をへだたりていき相愛する人は相合して同じ道を手に手を取りつつかえりつらん」との一節があった。野原の径をあゆみてはかかるいみじき想いもおこるならんが、武蔵野の路はこれとは異なり、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩も林の曲がり角で突然出逢うことがあろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横切り、真直ぐなること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるような迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現れ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影をみることは容易ではない。しかし野原の径の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじき実がある。
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただそのっ縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩むことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随所に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野の第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、那須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこのあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。
されば君もし、一つの小径を往き、たちまち三条に分かるる処にでたなら困るに及ばない、君の杖を立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその径が君を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小なる路を選んでみたまあえ。あるいはその路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地で苔むす墓が四つ五つならんでその前にすこしばかりの空地があって、その横のほうに女郎花など咲いていることもあろう。頭の上の梢で小鳥が鳴いていたら君の幸せである。すぐに引き返して左の路を進んでみたまえ。たちまち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開けている。足元からすこしだらだら下がりになり萱が一面に生え、尾花の末が日に光ってぃる、萱原の先が畑で、先に背の低い林が一叢繁り、その林の上に遠い杉の小杜が見え、地平線の上に淡々しい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間にすこしずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気みよい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮やかに映している。水のほとりには枯蘆が少しばかり生えている。この池のほとりの径をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とにかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処とえらびたくなるのは何とかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望は決してできない。それは初めからあきらめたがいい。
もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真ん中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声で尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽子をとって慇懃にと問いたまえ。鷹揚に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。
教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えのある往来、なるほどこれが近路だなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解るだろう。
真直ぐな路で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処にでることがある。この路を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮やにかがやいている。おりおり落葉の音が聞こえるばかりで、あたりはしんしんとしていかにも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇わず。もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路は落葉に埋もれて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針のごとく細く蒼空を指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に、一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。
同じ路を引きかえして帰るは愚かである。迷ったところが今の武蔵野に過ぎない、まさかに行き暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう。
日が落ちる、野は風が吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているの見る。風が今にも梢から月を吹き落そうである。突然また野に出る。君はその時、
山は暮れ 野は黄昏の 薄かな
の名句を思い出すだろう。
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